『1分で読書』で採種@処暑

こんばんは。
ブリッジライターNAOです。

本日は二十四節気の「処暑」。

暑さも緩み、秋の訪れを迎える頃となります。
(昼間は全国的に猛暑ではありましたが・・汗)

処暑の「処」の字は、
”処理”や”処置”という用法に見られるように
何かしらものごとを「おさめる・おわらせる」の意があります。

夏の暑さについても
暦の上では秋を迎えた立秋からさらに時が進み、
気持ち的に一区切りついて次に切り替えていくような時期でしょうか。

 

ところで、植物、とりわけ栽培作物においての
「処(=一区切り)」は、
種を残すこと。

「収穫」することももちろんそうではあるのですが、
来年もまた実りをもたらしてもらえるように、
次世代への種を残すことを
一区切りと考えてみたいと思います。

ところが、実は、現在の栽培作物において
そのほとんどが、種を採っていません。

種なし◯◯という品種はもちろんですが、
そうでなく、種はできるけども、それを採種して次に蒔く
ということをしないのです。

どういうことか言いますと・・

 

<スポンサードリンク>


 

野菜などの栽培作物の多く(少なくとも9割以上)は、
「F1(一代交配種)」と呼ばれるもの。

中学で習ったメンデルの法則を思い出していただければ分かるのですが、
品種は同じでも、形質に違いがあるもの同士を掛け合わせて
できた種が育ったものは、
性質(味・病害虫への強さ・穫れる時期など)が揃っています。

そのような種=F1が、現代の農産物の大半を占めています。

このF1は、流通においてとても利点が大きいので、
これが悪い、と糾弾するわけではありません。

しかし、問題としては、
そのF1から出来た種を蒔くことはできないこと。
(蒔いてもそこから出た作物は、性質が安定しないなど扱いにくい)

そうすると、
毎回F1を種苗会社から買わざるを得ず、
種を採ることに携わるのも、種苗会社の人のみになります。
つまり、プロの専業農家でさえ種採りをしない、ということです。

 

命を営むための「食べる」という行為は、
当然、「生き物の命」を食べているのであり、

「採種」という「生き物の命」のひとまわりの区切りが
ほとんどの人の目から触れないところに集中しているのは、
日常において「食べる」ことへの軽視につながってはいないか、
・・と、思わせられる話を聞いてきたところでした。

 

<参考サイト>
ガイダンス・コラム記事一覧@二十四節気
奥田政行シェフの料理哲学から「本物の”ご馳走”」が見えてくる
在来品種日本むかし野菜|大地を守る会
無肥料栽培を実現する本(岡本よりたか)

 

<スポンサードリンク>


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

関連記事

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。