吉田松陰(奈良本辰也)1951年

幕末の 風雲児たち 送り出す
萩に生まれた 大和魂

 

<この本から得られること>

・幕末の動乱期の状況と、この時代を席巻した思想(公武合体思想など)の詳細

・明治維新の立役者たちを育てた稀代の教育家であり非常に行動的な革命家である吉田松陰の遍歴(年表)と、彼の読書録や著述、肉親(兄の杉梅太郎など)や師(佐久間象山など)、盟友(宮部鼎蔵など)そして弟子たち(高杉晋作や伊藤博文など)との書簡からの抜粋により政治思想の変遷を追える

・獄中教育や松下村塾での驚異的な成果の源泉となった思考

 

<こんな本>

山口県出身の歴史家である著者が、誰よりも吉田松陰を敬愛していた父に捧げるものとして書き上げた、著者自身も松陰に強く惹かれるその情熱をもって彼を血の通った人間像として描き出すことを試みた本です。

 

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まず序盤と中盤で、江戸時代末期における飢饉や一揆の頻発する農村の荒廃や封建制度の疲弊、その上に帝国主義の西洋諸国が押し寄せる外交情勢、また徳川幕府の採用する朱子学などの政治思想がしっかり記述されています。
その背景を詳述することによって、松陰の幼年期の教育での影響、青年期に感化された思想、いかにその驚きの行動(東北旅行のため脱藩、留学を志望し下田でアメリカ船に直接交渉、老中暗殺計画の告白)に結び付いたか、丁寧にあぶり出しています。

家学である山鹿流兵学を幼くして修め、20歳前後には「国を守るために夷狄(ヨーロッパ諸国)と戦うには相手をまず知ること」ということでアヘン戦争の関連書籍を読みあさるなど洋学も熱心に学びますが、国学(日本神話)を中心に政治思想を練り上げていく様子も描かれます。

多くの傑物を輩出した事実により世間的には教育者としての松陰が知られていますが、著者は松陰の本領・性質はそこではなく、実践行動を最上位に位置付ける姿勢と祖国愛に基づいた情熱を貫いた結果としての教育の仕方だったと分析しています。

 

<ハイライトフレーズ3選>

・彼は、この行(21歳時の九州遊歴)において、実にジャーナリスティックなセンスそのものを身につけることができたのだ。かくして彼は、一藩の兵学師範としてよりも、一国のそしてまた世界の政治について思いを馳せる境地に立ちつつあった。

・彼は自分で政治の世界に画策し、自分でそれを運営していこうなどとは思っていなかった。彼は自分一個の力を信ずるよりも、同志の結束を信じ、また後につづくものの善意に信頼した。だから彼は、つねに身を犠牲にして、同志のために、また主義のために、前進の突破口をつくる役目を引き受けていた。

・死を決して後の彼は、あくまでも平静そのものであった。彼の希望は、ただ彼の志が諸友に受け継がれていき、そして天下に広まっていくこと以外にないのである。彼は、畢生の力をふるって「留魂録」を書き上げるのだ。

 

<参考サイト>
ガイダンス・コラム記事一覧@二十四節気

 

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